he sees women's tennis shoes filled with leaves,
and it fills him with inexplicable sadness.
ドン・ハーツフェルトの夕べのおかげで、
現在のカートゥーンの底流にあるものを理解できたと勝手に思い込んでいる。
そして、その流れはレギュラーショーから始まったと睨んでいる。
まず、僕らの毎日は退屈であること。そこは受け入れる。
次に退屈な毎日を生きてく。ここを目指す。
レギュラーショー、アドベンチャータイム、ガムボールと
年齢を変えたごっこ遊びがモチーフになるのは
つまらない日々との暮らし方を考えた結果なんじゃなかろうか。
始まりはマルコポーロゲームでも
世界の滅亡だってありうるのが
いまどきカートゥーンのリアリティだ。
未来で自分たちは成功していないと考えている世代にとって
スターウォーズのようにファンタシーで夢のある世界は
実感として遠すぎるのかもしれない。
いや、ポジティブにいこう。
ペーパークリップで家を買える時代に夢なんか見てる暇ないぜ!
…話がわからなくなったね。
思えば、長い間カートゥーンは現実離れしてる印象だった。
二頭身だし、そもそも子供向けだし。
そういう空気感が無くなったのはどうしてだろう?
>クリエイターの世代交代?
>共有のしやすさでの視聴者層の広がり?
いやいやいやいや。
答えは北米人の心にあるはずだ。
そこで、冒頭のハーツフェルトに戻る。
この人の語りは僕らのあくびを太陽の息吹にまで引き上げてくれる。
些末な偶然と雄大な奇跡を一列に並べ、
なんでもない僕らが存在することの価値を思い出させてくれる。
対して、これを逆に利用したのがリックアンドモーティーだ。
僕らも奇跡も一列に並べて、みんながバカだと教えてくれる。
あの作品がセックスでバイオレンスなのは、
セックスでもバイオレンスでもエレガントでもゴージャスでも
リックにとって違わないからだ。たとえ未来の自分が死んだとしても。
映画とアニメだし
Everything Niceに対してのAnarchyだし
毛色は全く違う作品のように思えるかもだが、
この二極の共通する部分が注目に値する。
あくびから太陽まで「一列に並ぶ」ことが重要なのだ。
また冒頭のハーツフェルトに戻る。
全てが一列に並び、僕らの「価値」は意識されるようになった。
でも、あくびの隣が太陽じゃ前が見えない。
ビルにとって「it's such a beautiful day」らしいが、
もうその理由はビルの中にしかない。
今、カートゥーンが僕らの日常に優しいのは、
僕らの「価値」が悪い何かに呑み込まれないためだ。