僕の場合は それが『ももち』だったんだ」(*1)
2017年10月1日に、コントで一番面白いお笑いグループを決める「キングオブコント2017」が行われた。
この大会で、関西の賞レースで幾つも勝利してきた実力派コンビ「かまいたち」が優勝したことは記憶に新しい。
しかし、当日どの出場者が視聴者に強烈なインパクトを残したか、と問われたとき、
「かまいたち」よりも、結成5か月というキャリアでありながら2位に輝いた「にゃんこスター」の名前が多く挙がるだろう。
にゃんこスター:キングオブコント2017より
彼らのネタはとてもシンプルに見える。
縄跳び大好き少年(スーパー3助)が、偶然、リズム縄跳びの発表会を訪れる。
期待に胸を膨らませる中、大塚愛の曲とともにお姉さん(アンゴラ村長)が現われる。
お姉さんは、リズム縄跳びの名前の通り曲に合わせて軽快に縄跳びの技を披露していくが、サビに入ると様子が一変し……。
私たちは多くの作品に触れてきた。小説でも、アニメでも、ドラマでも、映画でも、音楽でも、お笑いでも。
それは決して自慢ではないし、アイデンティティを確立しようとしての叫び声でもない。この「私たち」は、カルチャーに触れるものすべてだ。
私たちは、ほとんどの作品において「この部分って、要は○○って作品と同じだよね」とか、「この作品って、要はこういうことだよね」と言おうとすれば言えてしまう。
では、「にゃんこスター」のネタはどうだっただろうか。
この問いに答えることは非常に難しい。
たしかに先述のとおり、彼らのネタはとてもシンプルだった。それをもってオーソドックスな手法を寄せ集めしただけの「素人芸」であると断ずることもできるかもしれない。
しかし、あの緊張感のある生放送のコント賞レースで「素人芸」をやった、というそのことだけで、あんなにも《事件》になるだろうか。
松本人志は「いい感じで憎たらしかった」とコメントした。仮に彼らのネタが、本当にただの「素人芸」であったならば、そのようなコメントにはならないはずだ。
何故ならば、ただの「素人芸」をあの場で掻き乱すことは、他の出場者を愚弄することにほかならず「いい感じ」という言葉は出てきようもないからだ。
また松本人志含め審査員はプロである。今までにたくさんの拙い芸を見てきたことだろう。ただの「素人芸」ならば、審査員は嗅覚で感づいたと考えてしかるべきだ。
それを踏まえれば、「にゃんこスター」のコントには、ただの「素人芸」の水準には収まりきらない、「いい感じで憎たらし」い何かがあるに違いない。
本稿では、その「何か」=《逸脱》について、アイドル論を援用しながら迫っていきたい。
だがまずは《事件》の核心に触れるより先に、彼らのネタのオーソドックスな部分について、
1) リズムネタ
2) ハイテンション
3) 不条理
という3点から整理していこう。
1) リズムネタ
彼らのネタがリズムネタの一種であることは、ネタ中で「リズム縄跳び」という言葉が使われていることからも間違いない。
実際に、アンゴラ村長はリズムに合わせて軽快に縄跳びをこなすし、サビに入り縄跳びの縄を投げ捨てたあとも、基本的にはリズムに合わせた動きをする。
オリエンタルラジオの武勇伝
現代のリズムネタのほとんどは、このオリエンタルラジオの「武勇伝」を元祖としていると言ってよいだろう。
このネタも構造はシンプルだ。中田が武勇伝を口にし、藤森が笑いどころを短く解説するという流れを複数回繰り返す、これだけだ。
しかし彼らは、リズムネタ=クール、かっこいいという風潮を作り出すことに成功した。少なくとも彼らは不審者より、調子づいた大学生に見えた。それが大きかった。
その風潮はリズムネタをアッパーサイドに引きずり出した。そしてリズムネタは、若者に共有される文化となっていく。
(e.g. バンビーノ「ダンソン」、8.6秒バズーカー「ラッスンゴレライ」etc...)
バンビーノのダンソン
それらのネタに比べたとき、「にゃんこスター」のネタのリズムネタとしてのクオリティは、はっきり言って低く見える。
その理由は、以下の2つにより説明できると思う。
i) 縄跳びが意外と難しく、真似するにはハードルが高い
ii) サビからの動きが「不可思議さ」を出すためのものになっており、端的に言えばダサい
しかし、それでも彼らの真似をする人は続出するだろう。それについては、バナナマンが後日ラジオでも言及している。
どうしてだろうか。その疑問はさて置き、「2) ハイテンション」について考えていく。その中で、疑問もきっと解決できる。
2) ハイテンション
ネタの冒頭から、スーパー3助はテンションが高い。何しろ第一声が、「おーい!オイラは縄跳び大好き少年だよー!!」なのだ。
直後に裏がえった声で「縄跳びって最高だよね!」と畳みかけてくるのだからなおさらだ。そして映像を見ると、この時点で笑いをとれていたことが分かる。
声が裏返るほどの叫ぶ芸風と言えば、2016年末の「ガキの使いやあらへんで」を機に大ブレイクしたサンシャイン池崎がいる。
このスーパー3助のキャラクターとサンシャイン池崎には、ある共通点がある。シンプルな構造と大声で笑いを生んでしまったという点だ。
サンシャイン池崎の空前絶後
どうしてハイテンション芸は、ハイテンションであるというだけで面白いのだろう?
論理性もなしに断言するが、それはきっと、日常では目にできない異常性を、日常とは離れた舞台上またはテレビの中という「入れ物」の中で観察できるからだ。
この乱暴な仮説からは、ひとつの新たな仮説を立てられる。
「ハイテンション芸では、難しい構造を持つネタをすることはできない」。
どういうことだろうか。先の「入れ物」の話は、つまるところ、異常な人物を安心して見られる、というところにつながる。
だから、シンプルな構造のネタが持つ安心感をひとたび取り外してしまえば、その瞬間にハイテンション芸は異常性だけが強調され、笑えないホラーへと転化してしまう。
「にゃんこスター」のネタも、サンシャイン池崎の「空前絶後」のネタも、同じ「スカし」というシンプルな手法を用いている。
「○○をすると思わせておいて、しない」というギャグだ。例えば「にゃんこスター」は、縄跳びをさらに早く飛ぶと見せかけて飛ばないし、サンシャイン池崎は自己紹介をすると思わせてしない。
「にゃんこスター」の真似をする人は、きっと大塚愛の「さくらんぼ」に合わせてこの「スカし」をするという形での真似になるだろう。この方法であれば真似も簡単だ。
しかし、それだけではない。「にゃんこスター」の場合、コンビ芸であるがゆえに実はこの「スカし」に、さらに一捻りが加えられている。
この部分については、「3) 不条理」で触れていく。
3) 不条理
かまいたち:マジックばかり見せられてる
フランツ・カフカの小説に『変身』(Die Verwandlung)がある。とても有名な小説だ。
グレゴール・ザムザは、ある朝、自分が巨大な毒虫になっていることに気づく。
この日を機に家族の暮らしは変化せざるをえなくなり、家族のグレゴールへの感情も、虫になった当初の彼へのそれとは変わっていく。
『変身』は長編小説でこそないものの、それなりの長さはあり、そして物語も備えている。
しかしその作中において、なぜグレゴールは毒虫になったのか、という疑問は解決されず、また解決される気配もない。
彼は理不尽にも毒虫にされ、そしてその理由が明らかにされることはない。これが不条理だ。
「かまいたち」が2016年のキングオブコント1stステージで披露したネタも、この不条理性を備えている。
椅子に縛り付けられた男(山内)は、周りを歩きながら首がストンと落ちたように見せるマジックをするだけの男(濱家)に苦しめられている。
山内が濱家から肉体的に危害を加えられているわけではない。濱家はただ、一週間ずっと山内の周りでマジックを見せ続けているだけだ。その理由は一切わからない。
そして、「にゃんこスター」のネタも上のコントに似た構造を持っている。
アンゴラ村長は、サビに入ると縄跳びを捨ててしまう。これは「スカし」の手法として上でも触れたとおりだが、この「スカし」が行われる理由が最後まで一切わからないのだ。
ピン芸人の場合、ネタ中のコミュニケーションは観客と「1:多」の関係で行われる。
だがコントはあくまで芝居であり、第四の壁を破らない限り、コミュニケーションはコンビ(グループ)内で完結する。
サンシャイン池崎のネタは、最終的には名乗ることも含め、焦らすために「スカし」を行っていたのだ、ということを観客側で納得できる作りになっている。
そして「にゃんこスター」の場合、「スカし」=アンゴラ村長がサビで突然不可思議な動きをすることは、スーパー3助の中で解決できない問題=不条理に転化してしまう。
じゃあ「にゃんこスター」ってけっきょくは不条理ネタだったんだね!そういう話で終わらせてもいいのかもしれない。
しかし、話はそう単純ではない。私も、彼らのネタは不条理というワードで語れると思っている。しかしそれは、不条理小説のそれではなく不条理演劇のそれだ。
つまり、ベケットやイヨネスコが行ったアンチテアトル演劇のような。
不条理味のコントが抱える問題のひとつに、不条理性を伴って発されていたはずのボケが、次第に法則性という条理を獲得していってしまうというものがある。
簡単に言えば、私たちは見ているうちにそのボケに慣れてしまう、ということだ。不条理ネタは、この問題をどう処理するかが課題となってくる。
「かまいたち」の場合は、山内は既に一週間ずっとそのマジックを見せられていて、すでに慣れているという状態をコント内に取り込んでしまうことで処理しようとした。
では「にゃんこスター」は、どのようにしてこの問題を処理しようとしたか。
「にゃんこスター」は、アンチコントとも呼べるような、コントの条理を破壊するオチを用意することで、この問題を処理した。
そしてそのために使われたのが、現代アイドルのフォーマットだった。
ここからは、どのようにして彼らはアンチコントを為しえたのかについて、
これまで言及してきた、1番サビでのアンゴラ村長の「変わり身」以降に触れながら論じていく。
曲のサビが来た途端、アンゴラ村長は縄跳びを止めてしまう。
それを見たスーパー3助は見栄を切って「飛ばない!」と絶叫する。
その後も彼は「サビで、縄跳び、飛ばないの!?」「なんで!」「なんで飛ばないの!?」「飛ばない!!」「サビで、縄跳び、飛ばないんですか!」と叫び続ける。
彼の叫びは、「スカし」に対するツッコミだ。彼は「スカし」というシンプルな手法に対して、過剰なまでにベタなツッコミを入れ続ける。
またおかしなことに、彼はアンゴラ村長に向けてのツッコミをしてるはずなのに、過剰に客席に向かって演技をする。
スーパー3助は、この過剰性によって、彼もまた異常者の側に寄っているものの自分たちと気持ちを共有してくれている人、というポジションを獲得することになる。
だが、2番に入るとスーパー3助もまた「変わり身」をしてしまう。
Bメロに入る辺りで、スーパー3助は「この動き求めてる俺がいる」ことに気づく。「この動き」とはもちろん、アンゴラ村長がサビで見せた不可思議な動きだ。
「この動きが頭から離れない……サビが来る。まさか……」というスーパー3助の台詞のあと、曲はサビに入り、アンゴラ村長は1番のサビと同じ動きを開始する。
それを見て、スーパー3助は「待ってました!」と絶叫する。
ここでは、不条理性の固まりであったはずのアンゴラ村長の動きが法則性を獲得していってしまうことを利用し、ツッコミがむしろ不条理の側に寄っていってしまっているのだ。
このネタの肝は、スーパー3助がアンゴラ村長に対して融和していってしまう点にある。
この融和はヤケクソの芸ではない。違和感なくその瞬間を見せるために、スーパー3助のキャラクターは作りあげられている。
まずスーパー3助のハイテンション芸だ。これが冒頭から持続しているおかげで、アンゴラ村長の不可思議な動きへの突然の熱狂も、彼のキャラクターとして処理できる。
また、サビ以前の彼の言動にも注目したい。彼はアンゴラ村長を見ながら「あら~可愛らしい子が出て来ましたねー」「上手だねー」「いい脚してるよ、お姉ちゃん」と言う。
これら口調やセリフは、半袖半パンにキャップ帽という少年然とした彼の出で立ちからはかなりズレたものになっている。はっきり言えば、オヤジ臭い。
記憶に残りやすいサビの部分では、スーパー3助はその分かりやすさから観客の味方であるかのように振る舞えていたが、その前は彼はむしろ不条理の側にある。
だから彼の「変わり身」は、突飛なものとしてではなく、スムーズに観客側に受け入れられるものとなったのだ。
しかし、疑問が残る。どうしてスーパー3助は、アンゴラ村長の「この動き」を「求め」てしまうようになったのだろうか。
そのことについては、彼も「あれ?」と疑問に思っている描写がなされる。しかし、その解答はコント中で出されることはない。
私たち観客は、どうして彼があの不可思議で、特別クールでもキュートでもないあの動きに熱狂したのかが分からない。ここに新たなる不条理が発生する。
冒頭に引いた言葉は、テレビ東京の番組『YOUは何しに日本へ?』(8月28日放送分)に登場したノルウェー人男性の言葉だ。
彼は7年前からファンだった嗣永桃子(ももち)のラストコンサートに参加するため来日し、番組スタッフの同行取材を受ける。
アイドル評論家の中森明夫、現役アイドル兼漫画家の鹿目凛、でんぱ組.incのプロデューサーの福嶋麻衣子の鼎談において、福嶋は以下のように述べている。
「トイズファクトリーでデビューさせるまで、「でんぱ組は売れないよ」って、100人いたら100人にずーっと言われてたんですよ。その理由「かわいくない、踊れない、歌下手」。」
「素人はそう言うんですよ。でもこの三種の神器はアイドルが好きな人からしたら宝じゃないですか!」
アイドルにハマるということは、特別にキュートでもクールでもないものに、まるで向こうからやってくるかのように偶然に行き会い、魅せられるということと同義だ。
後付けでハマった理由を述べられるかもしれない。しかし、そもそもの「執着」はまったく条理性を欠いた、すなわち不条理な出来事なのだ。
これを「にゃんこスター」のコントに当てはめれば次のようになる。スーパー3助はアイドルに行き会ったのだ。
もちろん、この結論はまた別の疑問を呼ぶだろう。
それはべつにアイドルでなくても同じではないか? 私たちの「執着」は、いつでも、何に対してでも、不合理なものであり、アイドルに限定する必要はないじゃないか?
その疑問は大いに正しい。そしてこの疑問に対する回答こそが、なぜ「にゃんこスター」のコントがアンチコントたりえたのか、という疑問に対しての回答にもなる。
コントの場合、芸人はキャラクターとして舞台上にいる状態(板付)から始まる。つまり、コントは最初から最後まで芝居なのだ。
だから、仮にキャラクターの名前が芸人と同じであっても、キャラクターと芸人はあくまでも分けて考えなければならない。
しかし私たちはいつも、プロの役者とキャラクターをつい重ねて見てしまうよりも頻繁に、そして強く、芸人とコントのキャラクターを重ね合わせて見てしまう。
ここには2つの理由が考えられる。
・芸人はあくまで芸人であり、コント向けに演技力を磨いたとしても、ほとんどの場合は芝居そのものが上手いというわけにはいかない
・芸人の演じるコントはいつも似たストーリーや世界観になりやすくそもそもの役の幅が狭くなる
芸人本人(現実)とキャラクター(虚構)が重なり合う問題は、コントをやる芸人がずっと抱えている問題であり、そのことに多くの芸人はもちろん気づいている。
作中のキャラクターと芸人本人のキャラを意図的に接近させるボケがしばしば利用されるのはその証拠だ。
だからこういうことができる。コントを演じている最中の芸人は、キャラとキャラクターが重なり合った2.5次元的存在に近しくなっている、と。
そしてこの2.5次元的存在に近いのが、現代のアイドルだ。
アイドルたちは、ステージ上でパフォーマンスを行うアイドル=虚構、フィクションという2次元性と、
握手会などで触れ合えること、またウェブメディアにより知ることができる「生」に近い(と思えてしまう)身体性、現実性という3次元性を兼ね備えている。
アイドルたちは、この奇妙な重なり合いを生きる稀有な存在として、ファンから推され、活動している。
「にゃんこスター」のコントの話に戻ろう。
2番サビでアイドルに行き会ったスーパー3助は、ラスサビに入るともう立派に調教されたアイドルオタクと化している。
このままスーパー3助がアンゴラ村長に同調したままでコントは終わるのかと思いきや、もうひとつ異例のことを行う。ここに最大の《逸脱》があり、《事件》がある。
スーパー3助は最後、不意に縄跳び大好き少年の役を放棄し「僕たちのコンビ名は」と言い始める。
そして2人揃って「にゃんこスターでした!」と名乗り、客席に向かって手を振る場面で暗転する。
先ほど確認したコントの約束事からすれば、これは御法度だ。
たしかに私たちは、往々にしてコントの登場人物たちを芸人と重ねて見ているが、あくまで芸人のほうからは、同じであると明言しない。
それは不文律といったものではなく、それをしてしまうと、世界観が壊れて果ててしまうから「できない」のだ。
だが、「にゃんこスター」はそれをやってしまえた。これこそが《逸脱》であり《事件》であり、「いい感じ」の「憎たらし」さの正体だ。
ではなぜそのようなことができてしまったのか、というと以下の2点が挙げられる。その詳細は、これまで説明してきたとおりだ。
・コント全体を通して守られた、シンプルさ、チープさ、それによる「素人芸」感により、なんでもありの雰囲気を作ってしまえたこと。
・その中で、現代アイドルが持つ不条理性と、アイドルとコントに共通する2.5次元性というゆるい言葉遊びを背後に走らせ、展開の持つ飛躍感を薄めることができたこと。
もちろん彼らのコントにも大きな欠点がある。
それは、彼らのアンチコント性が、コントの持っている構造に大きく依存しているという点だ。
中身を変えれば別のネタが成立する型は武器になるものだが、今回は型の存在感が大きすぎる。
デビュー作が代表作とならないよう、今後の活躍にも期待していきたい。
最後に、「King of 学芸会」を自称するアイドルグループ・エビ中こと私立恵比寿中学のMVを特に意味もなく貼っておく。
私立恵比寿中学校:YELL
【雑記】
今回、「にゃんこスター」のネタで触れなかった箇所が2箇所ある。伝説の縄跳びを抜く部分とラスサビでアンゴラ村長が行う不気味な踊りの場面だ。
それらの場面でスーパー3助は「お姉ちゃんに抜けるわけないよ!」「こっちのほうがいいよ。伝説の縄跳びなんか捨てちゃえよ!」、「これじゃない!なにこれ!こっちこないで!」と言う。
ここに、アイドルの(あるいは誰かの)変化を厭う「執着」心やパターナリズムのようなものが顔を出していると言うのは言い過ぎだろうか。
*1: 「アイドルは探すものじゃなく向こうからやってくるもの」ノルウェーからももちのラストライブに来たヲタに密着 #YOUは何しに日本へ -togetterまとめ より
(https://togetter.com/li/1145151)
Mench